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第二章 覚醒―一八六八年、春

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-05 05:51:08

 時代が動いていた。

 慶応四年、後に明治元年と改元されるこの年、日本は激動の渦中にあった。

 鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れ、江戸城は無血開城された。二百六十年続いた徳川の世が、音を立てて崩れていく。

 吉原も、その変化の波に飲み込まれていた。

 幕臣たちは没落し、新政府の官僚たちが台頭した。客層が変わり、金の流れが変わった。

 そして十七歳になったお蘭は、その変化を誰よりも敏感に察知していた。

「蘭、ちょっといいかい」

 ある春の午後、葵太夫がお蘭を呼んだ。

 葵は三十歳になっていた。相変わらず美しかったが、顔には疲労の色が濃くなっていた。

「何でしょうか」

「今夜の客なんだけどね…… 新政府の役人らしいんだ。気をつけてほしいことがあってね」

「へえ」

「この人たちは、幕府の連中とは違う。もっと…… 危険だよ」

 葵の声には、珍しく緊張が混じっていた。

「どういう意味ですか?」

「理想に燃えてるのさ。新しい日本を作るんだって、本気で信じてる。そういう人間は、怖いんだよ。何をするか分からない」

 お蘭は頷いた。彼女もまた、客たちの変化を感じていた。

 幕府時代の客は、遊郭を「息抜きの場」として扱った。しかし新政府の官僚たちは違った。彼らは遊郭でも政治を語り、理想を語り、時には女郎たちに意見を求めた。

 それは、新しい可能性でもあった。

 その夜、お蘭は初めて、運命を変える男と出会った。

 名は橘誠一郎。二十八歳の新政府官僚だった。

 背が高く、鋭い目をした男だった。西洋式の髪型にし、洋服を着ていた。新しい時代の象徴のような人物だった。

「これはこれは、葵太夫。お久しぶりです」

 橘は丁寧に挨拶をした。

「橘様、お越しいただきありがとうございます」

 葵が応じた。その横で、お蘭は静かに酒を注いでいた。

「ほう、新しい振袖新造ですか」

 橘の視線が、お蘭に向いた。

「へえ。蘭と申します」

「蘭…… いい名だ。清楚でありながら、気品がある」

 橘は微笑んだ。しかしその目は、お蘭を女として見ているのではなかった。まるで、興味深い研究対象を見るような目だった。

「蘭さん、あなたは字が読めますか?」

 突然の質問に、お蘭は戸惑った。

「少しだけ…… 読めます」

「ほう。誰に習ったのです?」

「独学です。客人が置いていった新聞を、こっそり読んでおりました」

 橘の目が、わずかに見開かれた。

「新聞を? 内容は理解できましたか?」

「全ては理解できませんが…… 世の中の動きは、なんとなく」

「素晴らしい」

 橘は身を乗り出した。

「葵太夫、この娘は聡明ですね。珍しい」

「へえ。蘭は、ここでも一番の利発者でございます」

 葵が答えた。その声には、わずかな誇りが混じっていた。

「蘭さん、では聞きますが、あなたは新政府の政策について、どう思いますか?」

 お蘭の心臓が跳ねた。

 これは試されている。

 しかし、何を試されているのか。正直に答えるべきか、当たり障りのないことを言うべきか。

 一瞬の沈黙の後、お蘭は決断した。

 正直に答えよう。

「難しいことは分かりませんが…… 一つだけ、疑問がございます」

「言ってごらんなさい」

「新政府は、四民平等を掲げておられます。しかし、ここにいる私たちは、その平等に含まれているのでしょうか」

 座が静まり返った。

 葵が息を呑んだ。お絹が顔色を変えた。

 しかし橘は、笑った。

「見事だ。核心を突いている」

 彼は盃を置き、真剣な表情になった。

「その通りです。新政府の矛盾は、まさにそこにある。我々は平等を謳いながら、遊郭という不平等の象徴を容認している」

「では、なぜ……?」

「経済的理由です。遊郭は莫大な税収をもたらす。それを失えば、政府の財政は破綻する。だから、理想と現実の狭間で、我々は苦悩しているのです」

 橘の言葉には、本物の苦悩があった。

「蘭さん、あなたのような聡明な女性が、このような場所に囚われているのは、確かに不条理です。しかし、それを変えるには、時間がかかる。社会全体の意識を変えなければならない」

「……分かりました」

 お蘭は深く頷いた。

 この男は、本物だ。

 理想主義者だが、現実も見ている。そして何より、女郎を人間として見ている。

 ·········

 その夜を境に、橘は扇屋の常連客となった。

 しかし彼が求めたのは、肉体ではなく対話だった。

 橘はお蘭に、様々な話をした。新政府の政策、西洋の思想、経済の仕組み、法律の理念。

 お蘭は、スポンジのように吸収した。

 そして彼女は、橘に質問をするようになった。

「橘様、確率というものについて教えてください」

「確率? なぜそれを?」

「客人の行動には、パターンがあると気づきました。そのパターンを数値化できれば、より良いおもてなしができると思うのです」

 橘は驚嘆した。

「あなたは…… 天才かもしれない」

 彼はお蘭に、確率論の基礎を教えた。

 お蘭は、それを実践した。

 客の好みの酒、会話の傾向、機嫌の良し悪しの予測。すべてを数値化し、パターンを見出した。

 そして彼女の評判は、急速に高まった。

 一八七〇年、春。

 お蘭は十九歳になった。

 お絹が彼女を呼んだ。

「蘭。お前を、花魁に上げるよ」

 ついに、その時が来た。

「ありがとうございます」

「葵の跡を継いでもらう。お前なら、吉原一の花魁になれる」

 お絹の目には、計算高い光があった。お蘭は金になる。莫大な金を生み出す商品だ。

 しかしお蘭もまた、計算していた。

 花魁になれば、より高位の客と接触できる。政治家、実業家、文化人。彼らから得られる情報は、計り知れない価値がある。

「精一杯、務めさせていただきます」

 お蘭の花魁披露の夜は、吉原中の話題となった。

 彼女の美しさは、葵太夫を凌ぐと評された。しかし、それ以上に評価されたのは、その知性だった。

 お蘭は、ただ美しいだけの花魁ではなかった。

 彼女は客の話を理解し、的確な質問を投げかけた。政治について、経済について、哲学について。

 男たちは驚いた。そして、魅了された。

 遊郭で肉体だけでなく、知的な対話ができる。それは、新しい体験だった。

 しかし、お蘭の真の目的は別にあった。

 彼女は情報を集め続けた。そして、それを橘に提供し始めた。

「橘様、先日いらした岩倉様が、こんなことを仰っておりました……」

 お蘭が提供する情報は、時に政治的に重要だった。

 橘は驚いた。

「蘭さん、あなたは…… 何を考えているのです?」

「私は、ここから出たいのです」

 お蘭は、初めて本音を漏らした。

「そのためには、あなた様のような方の力が必要です。私は情報を提供します。その代わりに、いつか私を助けてください」

 橘は長い沈黙の後、言った。

「……分かりました。しかし、約束はできません」

「構いません。可能性があれば、それで十分です」

 そして一八七二年、夏。

 お蘭の人生に、最初の転機が訪れた。

 政府内で、廃娼論争が激化したのだ。

 遊郭制度を廃止すべきか、維持すべきか。新政府を二分する論争だった。

 橘は、廃娼派だった。

 しかし彼は、板挟みになっていた。政治的には廃娼を主張しながら、お蘭という個人とは深い関係にあった。

「蘭さん、あなたに謝らなければならない」

 ある夜、橘が言った。

「もし遊郭が廃止されれば、あなたは自由になれる。しかし同時に、生きる術を失うかもしれない。私は、あなたを矛盾した立場に置いている」

 お蘭は微笑んだ。

「橘様、お気になさらないでください。私も、矛盾しているのです」

「矛盾?」

「私は、遊郭を憎んでいます。しかし同時に、ここで学んだことに感謝しています。ここがなければ、私は無知な農村の娘のままでした」

 彼女は続けた。

「矛盾を抱えて生きることこそ、人間らしさだと思います」

 しかし、矛盾は彼女を苦しめ始めた。

 廃娼論争が激化するにつれ、遊郭の女郎たちは不安に駆られた。

 自由になれる。しかし、その後どうやって生きればいいのか。

 ある日、葵太夫がお蘭に言った。

「蘭。あたしたちは、どうなるんだろうね」

 葵の声には、諦めがあった。

「分かりません。でも……」

「でも、何?」

「きっと、生き延びる方法はあります」

 お蘭の言葉に、葵は悲しそうに笑った。

「あんたは強いね。あたしには、もうその強さはないよ」

 その夜、お蘭は眠れなかった。

 葵太夫の諦めた目が、脳裏に焼き付いていた。

 私は、彼女とは違う。私は諦めない。

 しかし同時に、疑問が湧いた。

 私は何のために戦っているのか? 自分の自由のため? それだけか?

 お蘭は、初めて自分自身に疑問を抱いた。

 そして、答えは出なかった。

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